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作成日時:2022.04.21
更新日時:2024.02.16

入替戦で“伝説のゴール”を挙げた漢・青山竜也。引退を決めて過ごしたラストシーズンに後悔はなかったか?|奇跡の残留力

PHOTO BY高橋学

フットサル界でこれからも語り継がれていくであろう2021シーズンのFリーグディビジョン1・2入替戦「3・5決戦」。その立役者は間違いなく青山竜也だった。

「30歳でフットサルを引退する」

そう決めて歩んできた現役生活のなかで、最後のクラブに選んだのがボアルース長野だった。「チームを勝たせるために、自分のこれまでの経験を伝える」と意気込み、2020シーズンから新天地へ。しかし、最下位に沈むチームを立て直すことは簡単ではなかった。

遠い白星、指揮官と選手のギャップ……。「フットサルがつまらなくなった」。これまで経験してきた以上の苦しみ、悔しさ、挫折の連続に頭を抱えた。

しかし、青山にとって長野で2年目のシーズン、2021年10月に転機が訪れた。

監督交代だ。これをきっかけにチームは生まれ変わった。最終的に3年連続最下位に終わったものの、あと一歩で入替戦を回避するまでに奮闘した。王者・名古屋オーシャンズには敵わなかったものの、もう少しで大金星を挙げるところまで追い詰めた。

一つひとつの戦い、経験が、彼らを強くした。

迎えた入替戦。第1戦を1-2の逆転負けで落とし、第2戦も2点のビハインドで試合を折り返す。見ていた多くの人が「長野は頑張った」と労いの言葉を考えていたに違いない。

だが、青山は奮起した。

「人生を賭けろ、最後の1秒まで勝つことを信じてプレーしろ」

ロッカールームでキャプテンが発した言葉はチームを蘇らせた。第2ピリオド開始からパワープレーに打って出ると、1点、もう1点と追い上げる。そして残り5分、青山のファー詰めが炸裂した。

慢性的な膝蓋腱炎(しつがいけんえん)に悩まされ、満足にプレーできないほどボロボロだったはずの青山が、体で押し込む野生味溢れるゴール。彼らしいそのプレーは多くの人たちの心を動かした。と同時にこれが決勝点となり、青山のゴールは伝説となった。

青山は昨シーズンをもって現役を引退した。「F1残留を手土産に」と言うと、少し不恰好かもしれない。だが、紛れもない大仕事だ。青山は、自らの“体”で有終の美を飾った。

「アツいオトコ」として知られる青山はなにを胸に闘い、そして去ったのか。文字どおりこれがフットサル選手・青山竜也のラストインタビュー。漢・青山はなにを語ったのか。

※インタビューは3月16日に実施した

インタビュー=北健一郎
編集=川嶋正隆



改めて訊く、青山竜也引退の理由

──もう引退されたということで、青山竜也“さん”と呼ばせていただきます(笑)。青山さんは昨年12月24日に引退を発表しました。シーズン途中での発表となった理由は?

一番の理由は、ファンのみなさんに感謝の気持ちを直接伝えたかったからです。ボアルースのホーム最終戦は12月26日だったので、その前に発表しました。

引退することは、シーズンが始まる前から決めていました。これまで所属したフウガドールすみだやバルドラール浦安のサポーター、そして全国のフットサルファンの方々にも見ていただきたいと思っていました。ただ、星翔太さんも同じ考えで「翔太さんに被せるのも……」と思い、僕はホーム最終戦の前に発表することにしました。

──引退を決めて臨んだシーズンでしたが、その思いが変わることはありませんでしたか?

実は、監督が代わってチームの状態が上向きになってきたときに撤回を考えました。監督交代後の初戦、ボルクバレット北九州戦、次の名古屋オーシャンズ戦で明らかに変わった手応えがありました。プレシーズンからこの状態で臨めばもっといい準備ができて、中位も狙えるんじゃないかなと。

以前から30歳で引退すると決めていましたし、一時はフットサルが嫌いになる手前の状態になっていました。でも手応えを感じたことで、もう一度自分の考えを整理しました。

その結論が「フットサルって素晴らしいスポーツだなという思いを抱えて、新しい道に進む」こと。フットサルに対してきれいな気持ちのままやめたいと思えたので、引退を決断しました。

──長野の公式note『プレイヤーズヒストリー 青山竜也編』を拝見しました。そこにも記されていましたが、なぜ30歳でやめようと思ったのでしょうか?

2つあります。一つはセカンドキャリアを考えての決断です。叔父が社長を務める海洋土木の仕事に就くのですが、58歳になる父親が現役で働いている姿を見て学びたいと思いました。仕事のことを考えたときに、30歳が一つの区切りだと思ったのが理由です。

もう一つは、自分のプレースタイルです。ずっと若手みたいなプレーで、みなさんに楽しんでもらえたと思いますが(笑)。年齢を重ねてくると、今のスタイルがきつい。実際に体にもガタがきていました。だからと言って、パスをさばくプレーに変えてもおもしろくない。だから30歳まで全力でやろうと決めていました。

チームを勝たせられると思い長野へ

──すみだでデビューして、浦安を経て長野に加入しました。なぜ長野に?

浦安の3シーズン目にあまり出場機会をもらえなくなったのですが、そのタイミングで長野からオファーをいただきました。土橋宏由樹GMとも話をして、12位のチームで自分がなにをもたらせられるかを考えました。最終的に、ここまでやってきたものを発揮できればチームを勝たせられると思い、移籍を決断しました。

──土橋GMとはどのような話を?

いろいろありますが、キャプテンをやらせてほしいと伝えました。移籍して1年目は西巻広直が指名され、2年目は有江哲平がキャプテンを務めました。横澤直樹監督が退任して柄沢健さんになったタイミングで、哲平に「このタイミングでキャプテンをやらせてほしい」と。哲平も理解してくれて、ゲームキャプテンを務めることになりました。

──そこまでキャプテンにこだわったのはなぜ?

自分の長所である「ポジティブに考えること」がチームにいい影響を与えられると思ったからです。

今までキャプテンとして、チームを引っ張る経験はありませんでした。加入した頃の長野は、選手たちからネガティブな言葉があがっていて、そういう声をポジティブに変えたいなと。1シーズン目は副キャプテンでしたが、プレーや練習態度からポジティブな雰囲気にできるように意識して取り組んでいました。



フットサルがつまらなくなった

──青山さんは長野で2人の監督の下でプレーしました。横澤さんはどんな監督でしたか?

良くも悪くも「自分」というものが強い方でした。すごくたくさんの戦術を知っていて、退任された後も、教えてもらった戦術から何度もゴールを決めました。戦術のおもしろさを教えてもらったと思っています。

一方で、頑固さがありましたね(苦笑)。例えば試合中、「この戦術を見せると、相手はここを切ってくる。だからこれをやれ!」と、戦術に当てはめます。でもピッチ上の出来事はナマモノというか、思い通りにはいかない。それでも決められた戦術やセットプレーを求める監督でした。状況に応じてやるというより、選手はある意味で自分を殺して戦術に徹するしかない。守備の戦術でも、相手がこちらの戦術の裏を狙ってきても、最初に準備されたものをやり続けないといけない。こうしたほうがいいと思っても、決められた形を遂行することを求めていました。監督と選手とのギャップは少なからず感じていました。

それで結果もでなくて苦しい時期を過ごしていくので、どんどんフットサルがつまらなくなってしまう。監督には監督の考え方があったと思います。でも、選手がそれを汲み取るのは簡単ではなく、そういった意味で負の連鎖が続いてしまったように感じています。

──うまくコミュニケーションが取れていなかった?

そう思います。監督は「奇策」を使うことが多いのですが、何度も実行すると相手に対応されてしまいます。でも監督は、それを1試合通してやり切ることを求めていました。

──奇策というのは?

いくつかありました。わかりやすいもので言うとディフェンスですね。ダイヤで構えて、右アラの選手が相手を追い込んでいく。当然、利点も欠点もあって、追い回しているところでライン間を使われて、逆サイドに通されてしまうとフリーな状況になってしまいます。

──横澤監督が湘南を指揮していたときに、植松晃都選手が、一人で前から追いかけていた場面がありました。

おそらく同じ戦術です。当時の湘南と長野では選手の能力も違いますし、植松くんやロドリゴにできていたものが、長野ではできないこともあります。

それ自体が示唆していますが、トップクラスであればなんでもできてしまうということであり、逆に、長野が同じことをしても、相手は1、2回見ただけで対応できてしまう。でも僕たちは、バリエーションを持たないのでやり続けなければいけない。

そこは本当に葛藤でした。ある意味で、負けて当然という状態だったと思います。

──根本的な問題は、監督と選手間の意思疎通にあった。

本当に難しかったですね。監督の戦術を否定しているわけではなく、その時々で最適な戦術を選ぶ必要があるということ。僕としてはそう考えていても、監督のなかでは、戦術を使う順番や形に強いこだわりがあった。そこが難しかったですね。

──そのギャップを埋め、選手と監督の間を取り持つような選手は?

2020-21シーズンに在籍していた荒牧太郎さんがその役目を担ってくれました。選手のレベルを引き上げつつ、監督にも寄り添ってうまくつなげようとしてくれましたね。きつい時期でも、太郎さんと話せていたことで個人的には本当に救われました。

──2020-21シーズンも入替戦に回るはずでした。トルエーラ柏(現しながわシティ)のライセンス問題で、戦わずに残留が決まりました。あのときの心境は?

個人的には戦って白黒つけたかったです。あの頃のチーム状態を考えれば僕らは「落ちるべくして落ちる」と思っていましたし、逆にトルエーラが上がることでフットサル界が盛り上がっていたのではないかと思います。それが本音です。

当時は、入替戦に向けてシーズンで用いてきた戦術を全部変えて臨もうとしていました。うまくできないなかでも積み上げてきたものを変える、と。そこでも葛藤がありましたけど、「自分のやることをやろう」という考えになっていました。

──残留して迎えた昨シーズンも同じ体制で臨みました。そこへの思いは?

30歳で終わりにすると思っていたので、最後にこのチームになにかを残してやめようと思い残留を決意しました。最後の1年だけ違うチームでプレーしても、難しさのほうが大きいという理由もありました。26歳だったらボアルースをやめていたと思います(苦笑)。



転機となった監督交代

──迎えた2021-22シーズンもなかなか勝てない時期を過ごしていましたが、柄沢監督が就任してから結果がついてくるようになりました。具体的になにが変わりましたか?

フットサルが楽しくなりました(笑)。指導者のスタイルの違いだと思いますが、柄さんは僕たちのことを尊重してマネジメントするタイプでした。一緒に目標を掲げて、その達成に向かって選手とスタッフが一丸となる。「この人のために頑張ろう」と思いましたし、なによりもフットサルの楽しさを改めて感じて「このチームをトップカテゴリーに残したい」と本気で思いました。その積み重ねが終盤の結果であり、しながわに勝てた要因だと思います。

──監督が代わったことで選手の起用法も変わったと思います。改めて長野の戦いを見ていると、一芸に秀でた選手が多いなという印象を受けました。

おっしゃるように、自分も含めてそうでしたね。ドリブルがうまい、シュートが強い。でもそれ以外が飛び抜けているわけではないので、「出場機会さえもらえれば爪痕を残せる」「自分の価値を証明したい」という選手は多かったと思います。

全員がまとまることができたのは、そういう思いを持って全力で取り組めるようになったからだと思っています。ただなんとなくプレーして、なんとなく負けるのではなく、本気で挑戦して、その結果負けてしまってもそこから得られるものは多いですから。

名古屋をギリギリまで追い詰めた試合(2021年10月31日に行なわれた第11節)でも手応えを感じましたし、そのほかの試合でも0-2から追いつくこともありましたし、試合を重ねるごとにできることが増えていきました。

「自分たちにもできるんだ」ということがわかって、みんなが自信を持ってプレーできるようになりました。だからビハインドの状況でも逆転できると思えましたし、そうやってメンタルが強くなっていったと思います。

なぜ長野はしながわに勝てたのか?

──入替戦で対戦したしながわは、F1経験者も多く、下のカテゴリーながらも「しながわ有利」の見方が強かったと思います。

そのとおりですね。2部練習できる環境面や、選手の質が違います。F1で活躍していた選手や可能性を秘めた若手を、岡山孝介監督がうまく融合させたチームです。僕たちはしながわのことをリスペクトしていました。彼らのそれまでの戦いを何度もビデオで分析して、練習では彼らとの対戦を想定してやってきました。パワープレーも繰り返し練習しましたし、結果としてそこが差になったのかなと思います。

しながわにとって、入替戦は通過点としか考えていなかったと思います。でも自分たちはそこに焦点を当てて、大きな壁だと思って、この戦いに向けて準備してきました。そこの気持ちの差、準備の仕方が結果につながったのかなと。(2試合合計)4-4で、勝ててはいないですけど、レギュレーションでは僕たちが残留しました。

──長野はあくまでチャレンジャーの姿勢を崩さなかった。

そうですね。相手は全日本選手権で優勝しているチームですし、自分たちがチャレンジャーだと思っていました。みんなにもそういう声かけをしていました。

──1試合目は先制しながらも1-2で逆転負け。2戦目もハーフタイムの段階で0-2。かなり厳しい状況に追い込まれましたが、あのときのチームの雰囲気は?

ロッカーの雰囲気は悪かったですね。声を出しているのは僕とヨネ(米村尚也)、(田村)佳翔しかいませんでした。気持ちが折れかけている選手もいたと思います。

でも、人生を懸けて戦うとは、ああいうときのことだと思います。みんなには「人生を賭けろ」「最後の1秒まで勝つことを信じてプレーしろ」と伝えました。1点を取るまで、みんな不安だったと思いますが、取ってからはみんなの気持ちに火がついて、活力が戻って、巻き返すことができました。さっきも言いましたが、リーグ戦で逆転した経験があったので、折れずにやり続けられたと思います。

──勝利を確信したタイミングは?

そんなのないですよ(笑)。最終節も負けて終わっていますし、逆転した経験以上にやられた体験が多いので、本当に最後まで油断できなかったですね。ベンチでも最後まで気が緩まないように声をかけていました。

──2点ビハインドから上林快人選手、田口友也選手のゴールで追いつき、決勝点は青山選手のファー詰めでした。あの場面は狙い通り?

実は、快人から斜めにボールが入ってくる形を練習でやったことは一度もありませんでした。でもあのときは快人がボールを持ったときに「快人!」と呼び続けていました。

狙いとしては、快人を呼ぶことで相手の白方(秀和)さんを絞らせてコースを作ることでした。一方で快人は、中村(友亮)さんが先読みして動いたことでプレーを変えた。僕へのパスコースが見えたらしくて、そこに蹴り込もうと。

自分もなぜあそこに飛び込めたのかわからないですけど、相手の股を抜けてきたボールを押し込みました。「気持ち」と言えばそれまでですが、いろんな人の思いが乗ったゴールだったと思います。

──ネットが揺れた瞬間の感情は?

最高です。今まで経験したなかで、一番アドレナリンが出た瞬間でした。

戦える状態ではなかった全日本選手権

──試合後、会見場に松葉杖をついてきた姿が印象的でした。今の状態はいかがですか?

変わらず今も松葉杖生活です(笑)。入替戦の第1戦で足の着き方が悪くカカトを痛めてしまいました。全日本選手権も松葉杖のままで、2回戦のペスカドーラ町田戦に出ることを目指して調整していました。1回戦のヴォスクオーレ仙台戦はみんなに勝ってもらって、痛み止めを打ちながら試合に出たいとと思っていました。

──実際はプレーも難しいような状態ですか?

靴を履くのも痛いくらいでした(笑)。でも仙台戦の前半に、前所属の丸山(将輝)にゴールを決められてもうやるしかない、と。急遽、ボルタレンとロキソニンを飲んでピッチに立ちました。全然痛みが消えなくて、びっこ引きながら4割くらいのパフォーマンスしか出せなかったのですが……(苦笑)。

──現役最後の試合はボロボロの状態だった。

僕としては、入替戦の第2戦で引退を覚悟していましたから、選手権は心が燃え尽きた状態でしたね。プレーできるのか、プレーしていいのか悩みましたけど、最大でも残り5試合。足が壊れても後悔しないと思って、選手権でもプレーすることを決断しました。

──松葉杖をついている選手が途中から出て来て、仙台の選手も驚いたのでは?

「どうした?」みたいな(笑)。町田の金山(友紀)さんや日根野谷(建)さんから「(入替戦のゴールはアツかったけど、プレーは無理でしょ」と言われました(笑)。でもアップから痛いような素振りを見せないで、試合中もベンチにどっしりと座っていました。

前半11分に先制されて、すぐに「出なきゃ」とアップして、監督には後半頭から使ってくださいと伝えました。しながわ戦の成功体験があったので、0-1の状況ならひっくり返せるなと。ただ、自信があったパワープレーをする時間があまりにも短く、後悔しています。

「フットサルの熱意」を持って次のステージへ

──この数カ月はフットサル人生でも思い出深い戦いができたのではないですか?

これまでは、フウガで1年目のときに決めたゴールが一番の思い出でした。主力選手がいないなかで迎えた立川・府中戦、残り46秒で同点ゴールを決めました。満員の観客が立ち上がったあの瞬間は今でも忘れられません。でも、今回の入替戦は無観客試合でしたけど、あのファー詰めはフウガでのゴールを超える一番の思い出となりました。

──試合終了の瞬間、引退したくないという気持ちが芽生えたのでは?

いえ、やりきった気持ちが強かったです。これまで県内の新聞などのメディアに「チームを残留させて引退する」と宣言してきましたから、最高の置き土産を残せる誇らしさが大きかったですね。このチームのキャプテンを任せてもらって、常にF2に落ちるんじゃないかという不安との戦いでした。残留できてホッとしました。

──試合を中継したABEMAでは、実況の福田悠さんが、青山選手のプレーに感動して「漢・青山」と伝えていました。

ありがたいですよね。自分がこんなに“持っている”とは思いませんでしたけど(笑)。振り返ると、リーグ最終戦の1ゴール1アシスから流れが来ていたのかもしれません。

──ゾーンに入っていた?

もともと膝蓋腱炎(しつがいけんえん)で右ヒザを痛めていて、インサイドでボールを蹴るだけでも痛かったです。でも、引退が現実味を帯びてきてからは、その痛みがなくなりました。体のキレも上がってきて、最高の状態でプレーできていましたね。

──貴重な経験ですね。

ゾーンだったのかもしれないですね。最高の思い出を作ってやめられました。

──今年も多くの選手が引退を表明しました。それぞれの選手が、多くの人の心に残るプレーを見せてくれましたけど、青山選手のプレーもとびきり印象的でした。

日本代表でも活躍してきた翔太さんや(藤原)潤さん、滝田(学)さんがやめるなか、自分の引退は些細な記事で伝えられて終わっていたと思います。それにもかかわらず、巡り合わせもあって、こんな素晴らしいタイミングでやめることができてよかったなと。

それに、長野に来てからは人としても成長できたと思っています。キャプテンとして、いろいろと気を配りながら、チームのために戦う。そういう経験ができて本当によかった。フットサルを離れても、人生の財産になるような経験でした。

──そしてこれからは、社会人として次のステージへ進んでいく。

はい。フットサルで経験したものを、これからの仕事にもたくさん生かしていきたいです。フットサルへの熱意をそのまま仕事に移せば、言い過ぎでもなく「なんでもできる」と思います。これからも簡単なことばかりではないと思いますけど、フットサルで学んだことを生かしながら、ポジティブに考え、楽しく生きていきます。



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