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作成日時:2025.10.14
更新日時:2025.10.14

【連載】その7 プレデター登場と両雄激突/その8 カスカヴェウの悲劇/その9 ファイルフォックス2連覇|第2章 ファイルフォックス時代|第1部 黎明期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦

第1部 黎明期

第2章 ファイルフォックス時代(1998年11月~2000年2月)

その7 プレデター登場と両雄激突
その8 カスカヴェウの悲劇
その9 ファイルフォックス2連覇

その7 プレデター登場と両雄激突

アトレチコミネイロの衝撃を受けている間に、再び全日本選手権の地域予選の季節がやって来た。関東は東京都予選に優勝すると開催地枠の関係でストレートに決勝大会に進出できる。東京の2位は関東予選にまわる。一方、他の県は優勝チームが(県の登録チーム数によって第2代表あり)関東予選に出場できる。したがって、都予選の結果と関東予選の組み合わせがどのようになるか、チームは一喜一憂したものである。

すでに紹介したが、1997年に塩谷竜生が率いるBocchiというサッカーチームがあり、そこに、嶋根明宏、帖佐浩二朗(のちにフリースタイルフットボール球舞に所属)などがいた。嶋根は井の頭くなでフットサルを掛け持ちでやっていて、その井の頭くなは、第4回全日本選手権の東京都予選でファイルフォックスに大差で敗れ、チームとしては転換点を迎えていた。そこで嶋根と塩谷が中心となり、新たなチームをつくり直そうということで、嶋根と幼馴染で、のちにバルドラール浦安の岩本昌樹を誘い、井の頭くなの岡山孝介、嶋根、岩本、米川正夫(現在、バルドラール浦安ラス・ボニータス監督)や帖佐の通う明海大学サッカー部の先輩、後輩が合流して出来たチームがプレデターである。

当時、岩本はサッカーの九曜クラブでプレーしていた。九曜クラブと言えば、前出の相根、黒岩、遠藤、横澤直樹(のちにロンドリーナ、タイリーグ、湘南ベルマーレ監督、ボアルース長野監督など)らがフットサルに転向、その刺激を受けて、最初は掛け持ちでサッカーとフットサルをやっていたが、次第にフットサル専従となっていった。のちには日本代表候補、日本選抜に選ばれている。

ちなみに、2015-2016シーズンのFリーグ開幕戦のイベントに球舞が出演したが、帖佐の華麗な足技はプレデター時代に培ったものでる。

嶋根や岩本の出身が千葉であったこと、また結成当初、明海大学サッカー部出身者がチームの半数を占めていたこともあり、プレデターは活動拠点に千葉を選んだ。この年、ファイルフォックス、カスカヴェウは東京、プレデターは千葉、ウイニングドッグは東京を避け、本来の神奈川から出場することとなった。

その神奈川には、甲斐らが抜けたエスポルチ藤沢が新たな陣容を構え、全日本選手権に臨む。監督は大塚和弘、選手に黒岩、広山、関野淳太ら残ったメンバーに加え、社会人サッカーチーム「厚木マーカス」で一緒にサッカーをやっていた奥村敬人(のちにロンドリーナ、湘南ベルマーレ、同チーム監督)、奥村の友人で国士舘大でサッカーをやっていた阿久津貴志(のちにロン55第1部 黎明期 第2章 ファイルフォックス時代ドリーナ、湘南ベルマーレGKコーチ、現在はテクニカルダイレクター)、伊久間洋輔(のちにロンドリーナ、湘南ベルマーレ、同チーム監督)、竹花和之、さらには横澤、多田大輔(のちにブラックショーツ)らを擁したのだった。無論、この時点では各チーム、どんな組み合わせで関東予選を戦うかは知る由もない。

こうして、1999年末、第5回全日本選手権の地域予選が始まった。それでは2強と第3勢力の各チームの戦いぶりを紹介しよう。

まずは激戦区、都予選であるが、2連覇を狙うファイルフォックスはメンバーに変動があった。小野大輔(のちにフトゥーロからスペインに渡り、日本に戻ってからはバルドラール浦安、府中アスレティックFC、湘南ベルマーレ)、アスパから原田、板谷竹生、イパネマズKOWAから山崎が加わり、大城はプレデターに移籍となった。

ファイルフォックス、カスカヴェウ、府中水元クラブ、ガロら強豪チームは順調に決勝トーナメントに進んだ。しかし、小金井ジュールは予選敗退。そして、カスカヴェウは府中水元クラブと1回戦で対戦。結果は、11 -4でカスカヴェウの圧勝に終わった。

これは、名門・府中水元クラブとは言え、一般企業の会社員として働きながらフットサルをしているチームと、フリーターもしくはフットサル施設スタッフとして働きながらフットサルに割く時間が多いフットサル専門チームにおける差が出てきたことを意味し、次第にその傾向が強まる現れであった。

続く準決勝では、ファイルフォックスとカスカヴェウが激突する。

この戦いは今でも語り草になるほど激しいものであった。と言うのも、審判の微妙な判定が次第に両者の気持ちをヒートアップさせ、ファイルフォックスの5ファウルによる前田の第2PKや、カスカヴェウ・相根の審判への猛抗議による退場、人数が少ない時間帯のGK遠藤のナイスセーブの連発など、劇的なシーンが数多く詰まっていたからだ。結果は6-4でファイルフォックスが勝利、決勝戦にコマを進めた。一方のカスカヴェウは3位決定戦にまわることになった。もう1つの山はガロが勝ち進み、決勝はファイルフォックス対ガロとなった。

結果は4-2でファイルフォックスが勝利、ガロは先制点を奪い、2-2の同点までは粘ったが、最後は地力が及ばなかった。

結局、東京はファイルフォックスが優勝し、ストレートで全国への切符を手に入れた。2位のガロと3位決定戦を制したカスカヴェウの2チームが関東予選に進むこととなった。

さて、今回のお宝写真は、「もっさん」というニックネームで親しまれ、そのテクニックは秀逸、スペインリーグにも挑戦したことがあるプレデター創設メンバーの岩本である。競技フットサ56第1部 黎明期 第2章 ファイルフォックス時代ルの黎明期に数多くのチームが勃発、それこそ三国志のごとく戦いを繰り広げてきたわけであるが、スピードあるドリブルからのゴールは圧巻だった。

写真は2002年5月にスペインへ挑戦した時の2部クラブであるアルバセテの練習の一コマである。アルバセテはバレンシアの西、内陸に入ったところに位置する。のちに書くことになるが、2001年から2002年頃はスペインリーグに数多くの選手が挑戦し、岩本はいわゆる留学ではなく高評価を受け、契約までこぎつけ、のちに続く選手たちを勇気づけたのであった。

なお、この写真はフットサルネットの山戸一純が取材がてら同行した際のものである。

その8 カスカヴェウの悲劇

神奈川は戦前の予想どおり、今年から東京を回避したウイニングドッグと戦力強化を図ったエスポルチ藤沢が勝ち進み、決勝は両者の戦いとなった。結果は3-2でウイニングドッグが勝利。しかし、神奈川は2チームが関東予選に進めるため、この2チームが関東予選を戦うことになった。千葉はプレデター、茨城はマルバが順当に関東予選にコマを進める。

そして、悲喜こもごもの関東予選が1999年12月18、19日、埼玉県足立郡吹上町体育館で開催された。

まずは予選リーグ、神奈川代表のウイニングドッグと千葉代表のプレデターが同組で対決することとなった。プレデターは助っ人に大城、シーナを擁したが、チームワークがかみ合わず、ウイニングドッグに0-2で敗れ、予57第1部 黎明期 第2章 ファイルフォックス時代選リーグ敗退となってしまった。

神奈川代表のエスポルチ藤沢は、茨城代表のマルバを下して予選リーグを突破するが、なんと県予選で当たったウイニングドッグといきなり決勝トーナメント1回戦で再び対戦することとなった。

そして、プレデターを下して勝ち上がったウイニングドッグは、県予選ですでに破っている自信からか、エスポルチ藤沢に9-1の大差で勝利して決勝戦まで進む。

都予選でファイルフォックスに敗れたとは言え、本命の東京第1代表カスカヴェウは順調に予選リーグを勝ち上がる。東京第2代表のガロは予選リーグを勝ち上がったものの、伏兵・群馬代表の群馬コーチャーズに敗れ、決勝トーナメント1回戦で敗退する番狂わせとなった。

結局、決勝戦はその群馬コーチャーズを8-2の大差で下したカスカヴェウとエスポルチ藤沢を下したウイニングドッグの対決となった。この両者は民間大会で過去に何度か対戦しており、分はカスカヴェウにあった。

しかし、両者はすでに紹介したとおり、カスカヴェウのエスポルチ藤沢時代に同じ練習場のコートで交流があり、お互いに手の内を知り尽くしていることもあり、むしろ、心理的にはウイニングドッグに分があった。なぜなら、カスカヴェウから見たら最も当たりたくなかった相手であり、ウイニングドッグから見ると、カスカヴェウはエスポルチ藤沢のイメージが強く、エスポルチ藤沢には負けないという妙な自信があったからである。

案の定、カスカヴェウは、ウイニングドッグの豊富な運動量と激しい気迫に手を焼くことになる。先制点を挙げたものの追いつかれ、再び1点差とするがまた追いつかれる展開ののち、ついに逆転を許し、結果は2-5で敗戦となってしまった。カスカヴェウは、エスポルチ藤沢時代から2年連続して全日本選手権出場を逃してしまう。甲斐が監督を兼務していたが、選手との掛け持ちではヒートアップした時に間を置くなど、どうしても冷静な試合運びができない。都予選に続いて悔いが残る結果であり、カスカヴェウは監督不在に悩まされることとなった。ウイニングドッグが神奈川に回り、東京ではカスカヴェウがファイルフォックスに敗れて関東予選に回る〝展開のあや〟が微妙な組み合わせを生み、悲喜こもごもの関東予選であった。

さて、今回のお宝写真は、カスカヴェウの全日本選手権出場の野望を打ち砕いた、ウイニングドッグの関東予選優勝時の集合写真である。甲斐、相根、市原、前田、GK遠藤と日本代表クラスを擁してフットサル界のエリート集団を形成しつつあったチームに、同じ練習コートで教えを乞うたこともある、どちらかというと雑草チームが下剋上を果たした記念の写真と言えなくもない。結局、カスカヴェウが悲願の優勝を果たすのは1年後であった。そして、奇しくもその年にウイニングドッグは消滅、伝説のチームの1つになった。

その9 ファイルフォックス2連覇

明けて2000年2月、第5回全日本選手権が始まった。この年から会場は駒沢体育館に移され、この場所がフットサルの聖地と言われるようになった。見どころは、優勝候補筆頭のファイルフォックスが連覇なるか、第2回大会の覇者であるアスパがどこまで食い下がるか、そして、進境著しいウイニングドッグがダークホース的存在となるか、といったところであろうか。

実際、ベスト4にはこの3チームに、浅利真(のちにステラミーゴいわて花巻)がキャプテンを努める東北代表の「FC小白川」が入った。FC小白川は、山形大学サッカー部の4年生を中心につくられたチームで、のちに「東北ではパラゴスト」と言われるくらい強いフットサル専門チームの母体となった。なお、浅利は何度も日本代表候補に選ばれている。今大会の特徴は、戦前からの予想がそうであるように、フットサル専門チームの台頭が著しい大会と言える。

第2回大会の府中水元クラブの優勝、第3回大会のアズーの準優勝という歴史を経て、第4回大会はファイルフォックスの優勝、もはや第5回大会は、大会が始まる前の時点でフットサル専門チームが上位に並ぶと予想されるほどになった。

結果は、FC小白川を12-1という大差で一蹴したファイルフォックスと、これまた11-3の大差でウイニングドッグを退けたアスパの決勝となった。ダークホース的存在だったウイニングドッグは、地域予選の勢いが決勝大会では気負いに変わり、反則を連発し、2人の退場者を出すなど自滅してしまった。

決勝はファイルフォックスの試合巧者ぶりが光り、アスパを圧倒し、前半59第1部黎明期第2章ファイルフォックス時代2-1、後半4-1と安定した点差できた。勝利。2連覇を達成して第5回大会の幕を閉じた。

この年のファイルフォックスの日系ブラジル人の助っ人は、比嘉、ジョナスであったが、彼らのバランスの取れたフットサルが相当に機能していた。ウイニングドッグ対FC小白川の3位決定戦は、退場者でメンバーを欠くウイニングドッグに精彩はなく、32でFC小白川が勝って3位入賞を果たした。

時は2000年代に入り、チーム勃発から4年を経て、第4回大会、第5回大会とファイルフォックスが2連覇。この勢いはまだまだ続くのであろうか。

ちなみに、以前紹介した山下が準備したフットサル専門雑誌「フットサルマガジン ピヴォ!」は、この年の4月、ファイルフォックスの優勝を特集記事にして隔月発行で創刊された。創刊の経緯を聞くとこんな答えが返ってきた。
「山下がフットサルに初めて触れたのは、確か1996年でした。元々は、クルマ雑誌の編集を長くやっていたのですが、サッカーが大好きだったので、余暇には業界関係者とサッカーを続けていました。そんなある日、サッカー仲間のあるカメラマンが『今度、体育館でサッカーやろうよ』と言い出し、我々を引っ張っていったのが地下鉄丸ノ内線・茗荷谷駅からほど近い文京スポーツセンターでした。

実はそこでやったのがフットサルだったのです。行く道『こんなところでサッカーやったって……』と文句たらたらだったのに、始めた瞬間からフットサルの虜になりました。あげくに『こんなおもしろいスポーツに専門誌はあるのか、ない!?ならオレたちが始めるしかない』という雑誌屋特有の身勝手な発想で食いついたのが創刊のきっかけです。

以来、数年の準備期間をおいて2000年4月7日に創刊号を世に出しました。この10年、振り返ると大変なことばかりが頭をよぎります。でも、フットサルというスポーツが魅力的であることが僕にとって大きな救いです。これからの10年もフットサルの魅力を全身で伝えていきます」

今回のお宝写真は、日本初のフットサル専門雑誌「ピヴォ!」の創刊号の表紙写真である。ミスター・フットサルこと上村信之介、闘将こと難波田治が表紙を飾っている。残念ながら、本誌は2011年11月に紙媒体が休刊となってしまったが、その後は「デジタルピヴォ!」として、フットサル情報を発信している。

紙媒体のほうは、約11年間、69号を発刊したことになるが、フットサルの普及、啓蒙に寄与するばかりでなく、フットサルのライタージャンルを築いた功績は大きい。

【連載】フットサル三国志|まとめページ

木暮知彦(こぐれ・ともひこ)
ピープルスポーツ株式会社代表取締役。フットサル施設利用予約サイト「LaBOLA」を運営するラクシーズ代表取締役。元関東フットサルリーグ広報委員であり、元ファイルフォックス代表。2010年〜2015年にかけて、1996年の第1回全日本フットサル選手権から2011年ごろまでの「関東フットサル三国志」の歴史を綴った後、2012年から2021年のW杯リトアニア大会、および翌年2022年アジアカップまでを追記。フットサルの合従連衡、栄枯盛衰を見届けた生き証人として、激動の日本フットサル四半世紀を記している。

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