更新日時:2026.02.19
【連載】その1 鈴村、木暮、小野の海外挑戦/その2 世界につながる日本の選手権/その3 インターコンチネンタルカップ|第8章 関東から一足飛び世界へ|第2部 栄華期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦
第2部 栄華期
第8章 関東から一足飛び世界へ(2005年1月~2010年)
その1 鈴村、木暮、小野の海外挑戦
その2 世界につながる日本の選手権
その3 インターコンチネンタルカップ
その1 鈴村、木暮、小野の海外挑戦
26、25、24、これはワールドカップ出場時の鈴村拓也、木暮賢一郎、小野大輔の満年齢である。サッカーの場合は、比較的若い年齢で海外挑戦を行うが、フットサルの歴史から考えると、この年齢が海外挑戦ギリギリであろう。彼らが、アジアとは違うワールドカップの舞台で味わった「上を目指したい」「目指すなら今しかない」という想いが、日本に戻って強まったことは容易に想像がつく。日本リーグ設立まで待っていられない想いもあったのではないか。やはり、ワールドカップは普通の海外遠征や親善試合とは異なるのである。
こうして、2005年を迎えると、まず、木暮が動き出す。海外に進出すべく、マネジメント事務所と契約、その〝ツテ〟もあって、関東リーグおよび全日本選手権の合間の2005年1月2日にベルギーに向けて関東から飛び立った。ベルギーもプロリーグがあり、ワールドカップの木暮のプレーを見て、ファルコムアントワープ2000(アントワープ)というチームからオファーがあったのだ。10日間の日程だったが、練習に参加、Bチームの試合にも出場した。この移籍は条件が合わなかったのか日の目を見なかったが、のちのインターコンチネンタルカップ出場でチャンスが訪れ、最終的にはスペインの2部チーム、セビリア州のナサレノとの契約に成功する。ちなみに、サッカー日本代表の守護神だった川島永嗣も同じ事務所に所属し、木暮の後輩に当たるが彼もベルギーに移籍した。
小野は、関東リーグを終えた2005年2月に関東からイタリアへと飛んだ。府中は、ペルージャに在住しており、日本とイタリアの文化交流を促進するNIXITAのイタリア会長と交流が深く、その関係でイタリアに入団テストを受けることになった。小野が実際に契約に成功したのは、イタリア・セリエAのテルニ(イタリア内陸部にある都市で、ペルージャに近い)というチームで、シーズンが始まる8月頃にイタリアへと渡った。
鈴村は、小野とほぼ同時期の2005年2月、スペインのサッカー、フットサル留学の斡旋を手がけるユーロプラス株式会社のアテンドにより、最初はアルバセテのトライアウトを受けた。アルバセテと言えば、岩本昌樹がプロ契約に成功したスペインリーグ2部のチームである。実際には、外国人枠の関係で契約には至らず、3月に同じ2部のバルガス(スペイン、マドリードの近くのトレドという都市)の契約に成功している。そして、次のシーズンを待たずして4月2日にはデビューとなったから、3人のうちでは一番早く海外のピッチに立ったことになる。
このように、3人が打ち合せしたわけでもないのに、年が明けた2005年1月、2月に同じような行動に出たことは大変興味深い。しかも、結果的に3人とも3シーズンを海外で過ごしたことは今までになかったことである。日本の実力が認められたのかも知れないが、海外が日本の競技フットサル、さらに言えばその市場に興味をもった証ではなかろうか。
ということで、お宝写真は、鈴村、木暮、小野の3人の写真である。いずれもワールドカップ前後のもので、今にして思えば、この時から3年後のFリーグ設立の時は、この3人はまだ海外にいて、小野がスペインに移籍したことから、3人は同じ異国の地で戦っていたことになる。高みを目指した彼らの強い志を改めて感じる次第である。

その2 世界につながる日本の選手権
3人が世界に挑戦している頃と併行して、2005年2月4日から6日、記念すべき第10回の全日本選手権が開催された。日本代表を選考するために行われたと言っても過言ではなかった1996年の第1回全日本選手権から数えて10年が経ったわけである。この10年で、サッカーチームが強かった時代から、日系ブラジル人にフットサルを学び、王国ブラジルに挑戦、ついにはヨーロッパへ、世界へ挑戦するまでに日本のフットサルが進化したのかと思うと感慨深いものがある。ちなみに、全日本選手権には出場できなかった府中アスレティックFCが2月中旬、イタリアへと遠征している。チームとしてのヨーロッパ遠征は、2003年のプレデターのスペイン遠征以来である。
さらに、全日本選手権の優勝チームは世界クラブ選手権と目されるインターコンチネンタルカップに出場できることも、設立当時は想像もつかなかったことである。
本来なら、クラブ世界一を決める大会なので全国リーグ優勝チームがその代表としてはふさわしいのであろうが、それは少し時期を待たねばならない。もっとも、全国リーグが設立されてからは、インターコンチネンタルカップの開催自体が、世界景気の後退の影響から厳しくなっていることや、アジアクラブ選手権が設立されたことで、日本からの出場は途絶えている。
それにしても、日本の全日本選手権は、全国リーグがまだなかったこと、アジアクラブ選手権がなかったことから、当時は直接、世界へとつながっていたのである。
優勝すると、4月に行われる2005年のインターコンチネンタルカップに出場できる。そして、優勝を飾ったのは、ファイルフォックスであった。彼らは初戦のカスカヴェウ関西にこそ2-2の引き分けに終わったが、順調に予選リーグを突破、準決勝は、関東同士、すなわちロンドリーナとの対戦となった。
ロンドリーナは、後半開始3分で1-4の3点差とされると、すかさず奥村敬人をGKにしたパワープレーに出た。奥村のパワープレーは、関東予選のカスカヴェウ戦でその効果を証明済みである。ファイルフォックスも予測していたとは言え、あっという間に得点を重ね、残り2分でなんと6-6の同点にしてしまう。おそらく、このパワープレーは、結果的に負けたとは言え〝歴史に残るパワープレー〟となるだろう。
パワープレーと言えば、2010ー2011シーズンのFリーグ開幕戦、エスポラーダ北海道対名古屋オーシャンズで、試合開始からエスポラーダ北海道がパワープレーに出たことで賛否両論の議論となった。
また、2014ー2015シーズンにはシュライカー大阪が、パワープレーではないものの、ゴールキーパーが前戦に持ち上がり、ボール回しを頻繁に行う戦いがおもしろみに欠けるのではないかと物議をかもした。
結果的にエスポラーダ北海道はその後の展開を思いどおりに進めて〝前半を捨てる〟ことに成功し、引き分けに持ち込んだ。また、シュライカー大阪もプレーオフで名古屋オーシャンズを苦しめた。現代ではゴールキーパーがプレス回避のためにパス回しに加わることや、中盤まで持ち上がる〝GK攻撃〟は世界的にも常套手段となっている。パワープレーを含め、結果がすべての世界であろう。
6-6の同点からファイルフォックスの勝ち越し点を決めたのは、新加入の稲葉洸太郎であった。稲葉は残り1分、相手のボールを奪うと右サイドを得意のドリブルで突破、そのまま思い切り良くシュートを放って、準決勝のヒーローとなった。続く決勝は静岡のエマーソンFCだったが、これを難なく7-1で下し、ファイルフォックスは3年ぶり4度目の優勝を飾ったのだった。
なお、決勝は、全国リーグ設立に向けてのトライアルとして試行されたのか、有料試合(1000円)となった。また、有料に関する意識や入場者へのアンケート調査も行われた。これは、全国リーグが設立された場合の収益性の調査に他ならない。この時、前売りチケットは完売、駒沢体育館には1885人が詰めかけた。10年目にして、トライアルとは言え、有料までこぎつけたのである。
この年のファイルフォックスは強かった。全日本選手権に先立つ1月22日に最終節を迎えた第6回関東リーグは9勝2分けの無敗優勝(2位は府中アスレティックFC、3位はシャークス)、第10回全日本選手権優勝、3月25日から行われた第5回地域チャンピオンズリーグ優勝(2位はシャークス、3位は府中アスレティックFCで、関東のチームが独占)と、いわゆる当時の3冠を達成したのだ。
ちなみに、ファイルフォックスは前年の全日本選手権決勝でバンフ東北に負けて以降、関東リーグ、全日本選手権、都カップ戦と公式戦で26試合無敗を記録している(無敗記録に土をつけた相手はカスカヴェウで、3月13日の都カップ戦準決勝だった)。
こうして、2005年4月4日、ファイルフォックスは、全日本選手権優勝、地域チャンピオンズリーグ優勝と文句のない日本の代表クラブとして、スペインのプエルトジャーノで開催されるインターコンチネンタルカップに向けて飛び立った。
お宝写真は、伝説の全日本選手権準決勝ファイルフォックス対ロンドリーナの一戦、奥村のパワープレーとしよう。囲みの写真は奥村が直接シュートをゴール左隅に決めた直後のガッツポーズ。写真手前のフィールドプレーヤーは、横澤直樹(のちに湘南ベルマーレ監督など)、ゴールキーパーは定永久男である。

その3 インターコンチネンタルカップ
2005年のインターコンチネンタルカップは、スペインの小都市プエルトジャーノで行われた。マドリードから300キロ離れた小都市で、中心部の人口が5万5千人である。昔は炭鉱の街だったが今は農業が産業の中心らしい。参加国は、欧州からチャンピオンのブーメラン(スペイン)、2位のベンフィカ(ポルトガル)、南米からカルロス・バルボーザ(ブラジル、前年の大会王者)、マウウィー(ブラジル、南米王者)、北米からピッツバーグ(アメリカ、北米王者)、そしてアジアからファイルフォックス(日本、仮アジア王者)である。
ブーメラン、ベンフィカと同組となったファイルフォックスの結果は、ブーメランに0-7、ベンフィカに0-11で予選リーグ最下位、もう一つのグループとの5位・6位決定戦でピッツバーグに9-0で勝利し、なんとか5位に終わった。優勝はブーメラン、2位マウウィー、3位カルロス・バルボーザ、4位ベンフィカであった。
さて、ここでおもしろいエピソードがある。ベンフィカ戦の試合後、ベンフィカの監督は、ファイルフォックス監督の松村栄寿に「やろうとしていることはわかるが、まだ完成度が低い」と評価を述べた。
そして「ファイルフォックスには申し訳ないが、こちらにもチーム事情があるので……」とも述べた。〝チーム事情〟とは、後半残り8分近く、5点差のところからパワープレーに出たことを指す。それは、ブーメランが7-0でファイルフォックスに勝っているため、これを上回る得点差の勝利が必要だったからである。実際にパワープレーの準備に入ったのは4点差になったところで、それは残り13分であった。結果的にパワープレーは功を奏し、ベンフィカは11-0でファイルフォックスに勝利した。もっとも、ブーメランとの直接対決では1-8で敗れ、予選グループ2位に終わってしまったのだが。
さて、その監督とは、のちに名古屋オーシャンズで監督を務めるアジウであり、4点目の得点者はリカルジーニョである。先述したように、2010ー2011シーズンのFリーグ開幕戦、エスポラーダ北海道対名古屋オーシャンズにおいて、エスポラーダ北海道が最初からパワープレーを選択したことでその是非の議論があった。その当事者のアジウが5年前の日本チームに負けていたわけではないのにパワープレーを使い、試合後に「申し訳ない」とのコメントを相手チームの監督に伝えたことは大変興味深いものがある。
なお、決定的な4点目をたたき出したリカルジーニョはこの時まだ19歳であった。むろん、ファイルフォックスには木暮がいたから、アジウ、リカルジーニョとはすでに遭遇していたのである。
さらに言えば、アジウ、リカルジーニョの2人は、大洋薬品バンフ(第12回全日本選手権優勝、のちに名古屋オーシャンズ)が出場した2007年大会(開催地はポルトガル)の際に、同じベンフィカと対戦している。2人はこの時、まさかこの相手チームに同じ移籍するとは想像もしなかったことであろう。
ちなみに、大洋薬品バンフの成績は、ブーメランに0-8、ベンフィカに0-5、カルロス・バルボーザに0-4で敗れている。勝ったのはアフリカ代表のアンゴラのチームだけで、スコアは6-2であった。
むろん、アジウはそれだけの縁で名古屋オーシャンズに来たわけではない。重要な舞台回しの人物がいた。それは、ファイルフォックスのメンバーだった鈴木隆二である。鈴木は高校時代、ブラジルにサッカー留学の経験があり、その後、フットサルに転向、地域チャンピオンズリーグからカスカヴェウより移籍、今回の遠征メンバーになった。2005年5月に行われた第7回アジア選手権の日本代表にも選ばれた実力の持ち主である。
ちなみに、木暮とは読売ヴェルディユース時代の同期であった。その後、ブラジルのプロチームのトライアウトアウトに参加、その後の2006年3月から、縁あって、インターコンチネンタルカップで対戦したベンフィカに3カ月ほどアジウの下で勉強していたのである。鈴木はそののち、府中アスレティックFCを経て名古屋オーシャンズに移籍するが、名古屋オーシャンズがアジウを監督に招聘する際の交渉役になったのが鈴木というわけである。
鈴木はその後、スペインの2部リーグのチームに移籍、選手のかたわら指導者の資格を取得し、Uー10、Uー11クラスの指導経験を経て、ついには2014年、2部Bのマルトレイというクラブの監督に就任した。これは、日本のフットサル界において異色の存在と言っていいだろう。
奇遇と言えば、ベンフィカ対大洋薬品バンフの試合をスペインのセビリアから車で駆けつけて見に来た日本人選手がいた。それは、のちにスペインから名古屋オーシャンズに移籍した木暮である。木暮もこの時はまだ、自身が名古屋オーシャンズに移籍し、アジウ、リカルジーニョと一緒のチームになるとは思ってもみなかった。
このように、世界との縁は一朝一夕にできるものではない。大差で負けても参加し、挑戦し続けることで、実力も磨かれ、人脈もできるというものである。また、今までは、日本代表を通してアジア、世界を見てきたが、これからはクラブ対クラブの視点で日本と世界を見ていかなくてはならない。インターコンチネンタルカップ出場からそれを学ばねばならないだろう。クラブ対クラブで見ると、実力ばかりでなく、運営能力、マネーなどが関係してきて、世界とは、実力とは関係なく、日本をマーケットとして見ていることがよくわかる。
「さよならベイビー」。これはファイルフォックスがブーメランに敗れた翌日の地元の新聞に掲載されたファイルフォックスへ向けられた言葉である。
この言葉どおり、ファイルフォックスは、悔しさを胸にスペインに〝さよなら〟をした。
さて、お宝写真は、その証拠写真としよう。いつの日か、日本のクラブがアジアを超えて世界で活躍することを期待したい。














