更新日時:2026.02.19
【連載】その1 明暗分けたボツワナとゾット/その2 全国リーグ設立プロジェクトチーム発足/その3 栄華期のピークシーズンの始まり|第9章 栄華期の頂点|第2部 栄華期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦
第2部 栄華期
第9章 関東から一足飛び世界へ(2005年3月~2006年2月)
その1 明暗分けたボツワナとゾット
その2 全国リーグ設立プロジェクトチーム発足
その3 栄華期のピークシーズンの始まり
その1 明暗分けたボツワナとゾット
ファイルフォックスが世界に挑戦する約1カ月前、日本ではすでに新たなシーズンに向けた動きが始まっていた。まずは、2005年3月15日から第7回関東リーグの参入戦が始まった。関東リーグから参入戦にまわったチームは、11位のゾット、12位の柏RAYOであった。ゾットは、苦労して昇格、次代を担うホープと目されながらわずか1年で降格の危機にさらされることとなった。柏も、千葉が選抜からチームとして参入できるようになった第2回からずっと出場、維持してきた座を明け渡すかどうかの瀬戸際に立たされた(柏は当初、キューピーと名乗っていたが、第5回から柏と名称変更、また、メイクナインのメンバーを吸収、戦力強化を図っていた)。
毎年、参入戦はドラマがあるが、今年はどうであろうか。
まず、11位グループ、こちらはいきなり、ゾットと昨年降格した小金井ジュールが1回戦で対戦、ゾットはあっさり0-1で敗戦、あえなく降格となってしまった。しかし、勝った小金井ジュールも、決勝で茨城の伏兵サルバトーレソラに1-3で敗れ、復活はならなかった。ちなみに、千葉のセニョールイーグルスも復活を狙ったが、翌年参入を果たす権田FC(改名してコロナFC/権田)に敗れ、復活はならなかった。結果的に参入を果たしたのは伏兵・茨城のサルバトーレソラとなった。
次に12位グループ、注目は1回戦のボツワナ対高西クラッシャーズであった。ボツワナは、前回の参入戦には渋谷ユナイテッドで出場していた北原亘が戻ってきており、大幅に戦力強化、東京都1位で参入戦に出場している。一方の高西クラッシャーズは、前回は決勝でブラックショーツにPK負けで昇格を逃し、しかも2年連続PK負けという苦い経験がある。結果は、前半にリードされた高西クラッシャーズのパワープレーが裏目に出て、ボツワナが8-2の大差をつけて勝利、決勝にコマを進めた。一方の柏は順当に勝利して、同じく決勝にコマを進める。決勝は、ボツワナ対柏となったが、ボツワナの勢いは止まらず7-3で勝利、ボツワナが参入を決めた。
これで2年連続、参入戦にまわった関東リーグのチームが生き残って戻ってくる例をつくることはできなかった。それだけ、昇格したいチームの気持ちが強いということであろうか。民間大会の王者ボツワナは、前評判どおり強さを発揮、多少の回り道はあったものの、いよいよ公式のひのき舞台に上がることになった。
戻ってきた北原にとっては、この昇格は人生の岐路を変える出来事となった。前年の渋谷ユナイテッドでの参入戦の敗戦は、悔しかったと言ってもまだ学生時代の話であるから、趣味の一つの出来事と言えなくもない。しかし、目前に卒業、就職を控えての関東リーグ1部昇格であるから、このままフットサルを続けるのかどうか相当に迷ったに違いない。しかも、全国リーグが立ち上がる見込みもあり、チームメイトだった稲葉洸太郎はすでに日本代表、ファイルフォックスで日本一といった刺激もある。
結果的には、とりあえずは仕事とフットサルの両立を選び、仕事をしながら関東リーグを戦ったが、厳しい日々が続いた。いったんはフットサルがしやすい会社に転職したが、最終的には会社を辞めてフットサルの世界に飛び込んだ。その後、フウガの監督となった須賀雄大の話によると、北原をフットサル界に引き入れたのは、当時チームメイトだった須賀と金川武司だという。ある日、北原を尋ねて、これからのフットサル界の未来と北原の才能を熱く語ったそうだ。実を言うと、彼らも会社を辞めたのだった。ついに、北原も仲間とフットサルを選ぶことを決心、そして、名古屋オーシャンズのキャプテンとしても、日本代表としても、なくてはならない存在になった。
その後、北原はコンサルティング会社を経営すると同時に、一般財団法人日本フットサル連盟理事を務め、引退後はFリーグ解説者としても活躍するようになった。
一方、ほぼ同じ世代で構成するゾットは、1年でそのひのき舞台から降りることになった。チーム代表の清野潤は、北原より1年早く昇格した時に卒業、社会人になっている。ゾットはすでに紹介したとおり学生チームだったから、代表の清野とともに16名中9名が卒業、地方勤務になる者もおり、実はシーズン中の戦力低下に悩まされていたのだ。状況はボツワナと全く同じだった。働きながらの関東リーグ1部はやはり厳しいものがあり、運営面にも影響が出てしまった。運営を任せてしまい、行き違いから代表表者会議を無断欠席、そのペナルティで勝ち点3を剥奪される事件も起きた。結果は降格、これが清野の人生を変える出来事となった。
清野は、自身が練習になかなか参加できなかったこともあるが、自分が立ち上げたチームが運営面でつまずき、このままでは終われないと思ったのであろう、転職を決断したのだった。転職先はフットサルに理解を示してくれ、練習参加に便宜を図ってくれるゾットのサプライヤーである「DalPonte」(ダウポンチ)であった。
清野はこの時の心境をこう語っている。
「僕は北原のような素晴らしい選手ではありませんし、自分の実力をわきまえているつもりなので、自分自身が選手としてトップを目指そうとかいう気持ちは毛頭なく、とにかくこのゾットというチームをもう一度光の当たる場所に戻したいという、どちらかというと選手としてよりかは、チームの経営面からの想いによる転職でした。自分がしっかりかかわれなくて夢の舞台が夢のうちに終わってしまった後悔をこのままにするのではなく、もう一回チャレンジしてみたいなという気持ちでした」
こうして、清野とゾットは茨の道を歩むのであるが、1部に復帰するのに4年もかかるとは彼らも思っていなかったのではないか。2010年には、ゾットは、復帰した関東リーグにおいて、昇格と降格で行き違いになったフウガ(かってのボツワナ)と同じ舞台で首位争いを演じるまでになった。もっとも、フウガは2012年にFリーグに昇格し、2つのチームが戦うことは滅多になくなってしまった。清野は、フットサルチームの運営、スクール、サプライ用品の供給などを手がける株式会社ゾットを立ち上げている。
今ではダウポンチの商標をブラジルから買収、商品の企画製造販売を行う株式会社とジュニアスクールの運営、カテゴリー別のチーム運営、フットサル大会の主催などを行うNPO法人に分け、両者を経営、実業家の道を歩んでいる。
昇格した北原はプロ選手の道を歩み、日本代表、名古屋オーシャンズのキャプテン、Fリーグ最優秀選手までになった。降格した清野はフットサル企業経営の道へ人生の岐路を変えた。ちなみに2人は同じ早稲田大学である。
今年もドラマが生まれた参入戦であった。
お宝写真は、もちろん、清野と北原の写真である。清野の写真はゾットのホームページより、北原の写真は、関東リーグが専門のプレスを立ち上げたが、その第1号の写真から掲載した。2人はそれぞれの立場、環境は違うが、いまだにフットサルへの情熱を燃やし続けている。

その2 全国リーグ設立プロジェクトチーム発足
次なる新シーズンの動きとして、いよいよ全国リーグ設立プロジェクトが正式に日本サッカー協会内に発足した。プロジェクトリーダーは当時のフットサル委員会副委員長の松崎康弘で、2005年6月頃には、おおよそ以下の参入条件が雑誌記事に伝わった。
第1はクラブの法人化である。これはすでに述べたとおり、プレデター、府中アスレティックFCなどは準備を進めていた。スポンサーからの協賛金、選手との契約管理などの実務面、また、運営上の責任の所在を明らかにする点からもこれは当然の条件である。
次に、試合会場の確保である。これも、安定した日程を組むためには必要不可欠で、必然的に地元自治体の協力のお墨付きが不可欠であることを意味する。なぜなら、自前で体育館を用意することは困難であり、公共の体育館の土日の良い時間帯を安定的に確保するためには、自治体のフットサルへの理解がなければ実現できない。
もっとも、のちのことになるが、自前のフットサル専用アリーナを建設してしまうチームが現れるとは、この時は想像もつかなかった。また、これものちのことになるが、会場の収容人数の基準をどのくらいにするかによって参入条件をクリアするチームと、そうでないチームが現れることになり、その基準が2000人以上だったことで悲喜こもごもの結果を生むこととなった。
また、供託金の用意も必要と予測された。リーグ全体にビッグスポンサーがつけば別であるが、リーグの運営に責任をもってもらうための保証金であり、事前にリーグ機構に供託が必要である。むろん、金額についてはこれからのことであるが、それなりの額が見込まれた。
最後に、実力である。いくらお金があるからといって、弱いチームばかりで構成されてはリーグの魅力はなくなるため、全日本選手権優勝、地域リーグ優勝など、実績の証明が不可欠となった。
最終的には、収入と支出のバランス、とりわけ収入面で確固たる収入源があるかどうか、つまり安定してクラブ運営できるかどうかが問われることになるため、スポンサー集めが重要な鍵をにぎることも予測された。
設立のタイムスケジュールはこの時点では明確ではなかったものの、2007年9月すなわち2年後くらいが一つのターゲットになった。逆算すると、参入チームの公募および決定は2006年ということになる。ちなみに、サッカーとは違って9月にシーズン開始としたのは、世界の基準に合わせようとしたものである。
すでにこれらの条件は当初から予測されたものであるものの、いよいよプロジェクトが動き出したことで、参入を目指すチームは本格的な準備を始めることとなった。チームの成績をすぐに出すことはできないため、それこそ2005年、2006年の地域リーグ、全日本選手権、地域チャンピオンズリーグで上位の成績を残すことが至上命題となり、白熱したゲームが展開されることとなった。また、このシーズンの後半になると全国リーグ参入をにらんだ移籍なども活発に行われるようになった。
ちなみに、関東リーグでは、ファイルフォックス、カスカヴェウ、プレデター、府中アスレティックFC、ロンドリーナ、シャークスなどが参入するのではないかと噂された。関東以外では東海のバンフ、大阪のマグなどである。
お宝写真は、2005年12月号のフットサルナビに掲載された地域リーグの勢力表にしよう。Fリーグありやなしやの特集記事からだが、この表からは、関東の実力面の優位性がはっきり出ている。しかし、記事には、東京、関東だけに逆に競合も多く、スポンサーがつきにくいのではないかといった危惧も書かれていた。

その3 栄華期のピークシーズンの始まり
全国リーグ設立となると、国内トップリーグと目されていた関東リーグは、その名を全国リーグに明け渡すことになる。いくつかのチームは全国リーグに参入、関東リーグを出ていくであろうし、選手の移籍も始まる。
このように考えると、今にして思えば2005年7月からの第7回関東リーグは、〝関東三国志〟においてピークのシーズンだったと振り返ることができる。なぜなら、このシーズンから上位、下位リーグ制を採用し、1チームあたりの試合数を増やすとともに、より試合を白熱化させたからである。
まず、シーズンの前半は、通常どおり総当たり1回戦のリーグ戦を行う。前シーズンだったらこれで終わりである。しかし、第7回からは、上位6チーム、下位6チームに分かれて再び総当たりのリーグ戦を行う。この結果、今まで年間9試合だったものが14試合に増えることになる。そして、総合順位は、上位リーグの順位に続いて下位リーグの順位になるため、下位リーグに入った場合はもはや優勝はできない。
したがって、まずは前期(1stステージ)に上位リーグに残れるかどうかのおもしろさがあり、後期(2ndステージ)には、上位リーグでの優勝争いと下位リーグでの残留争いのおもしろさがあって、観客にとってはシーズンで2回楽しめるというものである。
完全なホーム&アウェイではないが、試合数が増え、白熱化したこと、および観客動員数が増えたことから、この年を栄華期のピークと歴史的には位置付けたい。また、全国リーグ参入を目指すチームはこの2年間の成績が重要になるため、移籍による強化が行われ、デッドヒートが繰り広げられたことも絶頂期の由縁である。なかでも、プレデターと府中アスレティックFCは、早くから参入の準備を進めていただけに戦力強化も盛んであった。
プレデターは、すでに2004年にカスカヴェウから相根澄、安藤信二、関西のカンカンボーイズから江藤正博、北海道のディヴェルティードから高橋健介を獲得していたが、2005年のシーズンは、ゴールキーパー強化で静岡の田原FCから川原永光を、フィールドプレーヤーでは関西のマグから福角有紘を獲得した。先のことになるが、2005年末には関西のマグから藤井健太を獲得している。一方、府中アスレティックFCは、2005年のシーズンにカスカヴェウから前田喜史、ゴールキーパー強化として、同じくシャークスから石渡良太、ガロから小山剛史らを獲得した。いずれも日本代表クラスであり、両チームの並々ならぬ意欲がうかがえる。迎え打つファイルフォックスは、ブラックショーツから森岡薫、カスカヴェウから鈴木隆二を獲得、連覇を狙った。
しかし、絶頂期とは次第に下っていくことも意味し、翌シーズンになると関東から他地域への移籍も起こり、関東から数多く全日本選手権優勝チームを輩出し続けてきた歴史もこのシーズンでいったん途絶えてしまう。シーズン終了後の第11回全日本選手権はプレデターが優勝した。しかし、翌年は東海の大洋薬品バンフ、その翌年はもう全国リーグが設立されてしまうのだ。つまり、プレデターは、全国リーグ設立までの最後の全日本選手権で優勝した関東リーグのチームということになる。もっとも、フウガによって一度、〝関東復権〟をなすが、これはのちの話となる。
ちなみに、全国リーグ設立までの全日本選手権優勝チームは第1、第3回のルネス学園(関西)、第2回の府中水元クラブ、第4、第5、第7、第10回のファイルフォックス、第6回のカスカヴェウ、第8回のロンドリーナ、第9回のバンフ東北(東北)、第11回のプレデター、第12回の大洋薬品バンフと続き、関東は12回中8回の優勝チームを輩出したことになる。おもしろいことに、関東の両雄(ファイルフォックス、カスカヴェウ)が出てきて、競技フットサルが本格化した第4回以降、Fリーグが設立されるまでは関東以外の優勝チームはバンフ系のチーム以外にない。つまり、バンフの櫻井嘉人が常に関東に立ち向かっていたということになる。それが原動力となって今の名古屋オーシャンズがあるのかも知れない。
さて、お宝写真は、高橋にしよう。どんな写真にするか迷ったが、「futsal EDGE」の引退インタビューでベストゴールを問われた回答に第7回アジア選手権準決勝、キルギス戦のゴールを挙げていたので、繰り上げてこの写真にすることにした(第7回アジア選手権の詳細は後述する)。
北海道出身の高橋は、東京に出てからは、サロンフットボールの経験を生かし、サッカーとフットサルの2足のわらじを履いていた。実際、第8回全日本選手権では、ディヴェルティードでベスト4に入っている。しかし、第9回はグループリーグで関東のフトゥーロに0-6で敗れ、それがきっかけでプレデターに入ったのだ。
こうして、2004年にはプレデターに入団、関東リーグで本格的にフットサルに取り組むことになった。そしてメキメキ頭角を現し、同年11月に行われたワールドカップのメンバーに選ばれ、壮行試合のアルゼンチン戦では早くも得点を挙げる快挙を成し遂げた。シンデレラボーイと呼ばれる由縁である。
しかし、ワールドカップでは活躍できないまま2005年を迎えた。その年の5月、ベトナムで行われた第7回アジア選手権に再び選ばれた高橋は、準決勝のキルギス戦に臨んでいた。すでに予選2次リーグでイランに初勝利、準決勝にコマを進めただけに負けるわけにはいかない。しかし、その気負いからか、なんと前半終了間際まで0-3とリードを許してしまう。そして生まれたのが、インタビューで挙がったベストゴールであり、お宝写真である。
おそらく、再び日本代表に選ばれたものの、内心ではワールドカップで活躍できなかったもどかしさが常にあったのではなかろうか。まさにそれを吹き飛ばすゴールで、前半を1-3で折り返すことができ、後半ついに逆転、決勝に進める値千金のゴールにつなげたのである。秀逸だったのは、ゴールキーパーと相手DFの間に入り、スルッとムービング・ピヴォの要領でフリースペースに流れ、木暮賢一郎からのパスをフリーで受け、そのままダイレクトのアウトサイドで流し込んだセンスである。その後の高橋を象徴し、彼の原点となったゴールではないだろうか。














