更新日時:2023.04.07
天国の祖母に捧げた日本一。真面目で天然で“ロックな男”岡村康平、現役最後に手にしたタイトルの意味|俺たちの全日本
PHOTO BY高橋学
岸将太が天井に向かって高々とボールを投げ、試合終了のブザーが鳴る。第28回全日本フットサル選手権大会は、フウガドールすみだの14年ぶりの戴冠で幕を閉じた。現役引退を表明していたすみだの岡村康平は、その瞬間をピッチ脇で迎えた。キャリア最後の大会で、自身にとって最初で最後のタイトルを獲得。決勝の相手は古巣・湘南ベルマーレ。これ以上ない幕引きとなった。
「出来すぎですよね。最後に優勝して、しかもお世話になった両チームのサポーターの前で引退できるなんて。本当に幸せ者です。これまでお世話になったみなさんに、改めて感謝したいと思います」
すみだが今大会で見せた一体感は、目を見張るものがあった。岡村のほか、チーム最古参だった宮崎曉、下部組織育ちの佐藤雄介が現役引退。荻窪孝監督の退任も決まっていたなかで「最後にこのチームでタイトルを獲る」という思いは強く、その団結は試合を追うごとに強固なものとなっていった。
それぞれの思いを胸に、強い気持ちで戦い抜いた選手たち。だが岡村にはもう一つ、この大会に懸ける大きな理由があった──。
27歳、遅咲きのFリーグデビュー
岡村康平は1987年4月20日、神奈川県茅ケ崎市で誕生した。生まれて間もなく、両親が離婚。1歳の頃に父方の祖父母に預けられ、祖父・晃八(こうはち)さん、祖母・京子(きょうこ)さんのもとで育った。
「鵠沼でサーフショップをやっていた父はとっても自由人で(笑)。茅ヶ崎の家にはたまにしか帰って来なかったので、基本的には祖父母と3人暮らしでした。父は男3兄弟だったので、僕は4人目の息子のように育てられたんです」
祖父母の愛情を一身に受けて育った岡村少年は、小学1年生の時に地元の少年サッカー団に入団。中学、高校とサッカー部に所属し、卒業までプレーを続けた。その後、大学生の時にフットサルと出会い、神奈川県フットサルリーグ1部のP.D.E.SQUAREに加入。本格的に競技生活をスタートさせた。
「大学卒業後は教員になろうと考えていて。ちょうど当時、高校のサッカー部の指導にも携わっていたんですよね。フットサルをプレーすることでフットボール観が広がれば、それがサッカーの指導にもプラスに働くのではないかと考えたんです」
当初はフットサルで上を目指そうとは考えていなかった岡村だが、数年後に転機が訪れる。元湘南で、当時すでに後進の育成に携わっていた奥村敬人氏(後の湘南監督)から「ロンドリーナ(湘南のサテライト)でプレーしてみないか?」と誘いがあったのだ。
教員か、フットサル選手か。岡村の心が揺れるなか、祖母・京子さんはフットサル選手を目指すことに反対した。
「教員のほうが安定しているからというのはもちろんあったと思いますけど、それ以上に『あなたは争い事が好きじゃないから、選手は向かないんじゃない?』って言われましたね。実際、僕は小学生の頃から人に譲ることが多い子で。サッカーをやっていても、自分がゴールを決めるより友達の得点をアシストするほうが好きだったんです。ゴールは1人だけど、アシストは2人喜べるから。ばあちゃんはいつも試合を観に来てくれていて、僕のそういうところもよく知っていたから止めたんでしょうね。でも、教員には後からでもなれるかもしれないけど、選手を目指せるのは今だけだなと思って、ロンドリーナでお世話になることにしました」
満を持して移籍を決断した岡村。しかし、その後の道のりは順風満帆とはいかなかった。ロンドリーナで中心選手として活躍しながらも、トップチームからはなかなか声がかからず。2013-2014シーズンにようやく昇格を果たすも、その年の出場はなし。初出場は翌2014年11月。27歳、遅咲きのFリーグデビューだった。
そして2016-2017シーズン終了後、湘南を契約満了となり退団。この時点で「引退の可能性もあった」というが、元湘南で当時すみだのコーチをしていた荻窪孝氏の推薦もあり、須賀雄大監督率いるすみだに加入。ここでその才能が一気に花開くこととなった。
後輩にイジられるすみだのムードメーカーに
岡村は決して多くの得点を奪うタイプのピヴォではなかったが、オフ・ザ・ボールの動きの質はリーグのなかでも一級品だった。前線で相手フィクソと駆け引きをし、絶妙なタイミングで味方の縦パスを引き出す。相手を背負ってボールキープしながら味方が走り込む時間を作り、丁寧なラストパスを供給。アシストやその一つ前のつなぎの部分で大きな役割を果たし、すみだの主力となった。
その動き出しの技術は同じFリーグで活躍するピヴォの選手たちからも一目置かれ、立川アスレティックFCの新井裕生らがその理論を直接教わりに行くほどだった。
また、岡村はその陽気なキャラクターでもファンから愛された。ファン感謝イベントなどではあえて汚れ役を演じ、後輩からも遠慮なくイジられるうちにチームのムードメーカーとなった。
当初はフットサル選手になることに反対していた京子さんも、いつしか岡村の活躍を見るのが日々の生き甲斐となっていた。湘南時代は小田原アリーナに足繁く通い、それはすみだに移籍してからも続いた。
「家が茅ヶ崎なので墨田区総合体育館はかなり遠いんですけど、それでも変わらずよく会場に来てくれていましたね。小学生の頃からいつも僕の試合を観に来ていたので、祖母にとってはその延長だったんだと思います。観に来れない試合もABEMAで毎試合チェックしていたみたいで、F1が全試合中継になってからは相手チームの選手のこともよく知っていました(笑)。フットサルの情報を集めるために、80歳を過ぎてからTwitterやinstagramも始めたんです。ある日チームメイトの諸江剣語から『“岡村京子”って人から“いいね”してもらったんだけど、これおまえの母ちゃん?』って聞かれたこともありました(笑)」
ABEMAがF1全試合生中継を始めて3シーズン目の2022-2023シーズン。清水和也、清水誠也という2人の大型ピヴォが復帰したすみだで、岡村の出番は徐々に減少。11月にクラブから契約満了を言い渡された。
「覚悟はしていたので、自分のなかでも整理はついていましたね。家族もいるなかでここからまた移籍してプレーを続けるのもイメージできなかったので、ここで引退しようと決めて。祖母に伝えたら『ここまでやってこれて良かったね!』と。『最後、また試合観に行くからね』と言われました」
当時はまだ、リーグ戦も約半分を消化した頃。墨田区総合体育館でのホームゲームも多く残されており、最後に京子さんにもう一度プレーする姿を見せられるはずだった。
しかし、年が明けてから事態は思わぬ方向に向かうことになる。
背中を押された祖母の言葉を胸に
1月、以前から持病のあった京子さんの容態が悪化。手術を行い、大きな病院に入院することとなった。
観に行くのを楽しみにしていたという1月13日の湘南戦、リーグ最終節のボルクバレット北九州戦も現地観戦は叶わず。病院のベッドからABEMAで岡村の雄姿を見守った。
その2試合で岡村は会心のプレーを披露。最終節では長く共にプレーした諸江、宮崎がつないだボールをファーで合わせ、残り6秒で劇的なリーグ戦ラストゴール。大団円の中心にいた。
契約満了の通知から2月まで、公私共に慌ただしく、ジェットコースターのような日々が続いていた。そんななか、リーグ戦が終わった2月後半、岡村はようやく茅ヶ崎の実家でゆっくりできることとなった。病院から自宅に戻っていた京子さんの介護にあたりながら、祖父・晃八さんと3人で思い出話に花が咲く。別れの時が近いことを悟り、これまで言えなかった感謝も伝えることができた。
「俺ね、中学生の頃とかはばあちゃんが試合を観に来るのが嫌だったんですよ。『なんでうちだけお母さんじゃなくてばあちゃんなんだよ』って。思春期だったので、周りの友達にも見られたくなくて『来ないでいいよ』とか言ってたんです。でも、目立たないようにこっそり観に来てくれていたのは知っていて。俺が昔あんなこと言っちゃったからなのかな。ばあちゃんがベッドで寝たまま『母親がいなくて、いろいろ不自由かけちゃったね』って言うんですよ。いやいや、俺は一度も不自由なんて感じたことはないよと伝えて。『いつも試合観に来てくれてありがとう。お陰でこの歳まで現役で頑張れたよ』と。最後に面と向かってちゃんと感謝を伝えられたので、自分にとってはとても大事な時間でした」
茅ヶ崎の実家からすみだの練習に通う日が何日か続いた3月1日。京子さんは天国へと旅立った。85歳だった。
覚悟はできていた。そのつもりだった。しかしいざその時を迎えると、喪失感は言葉にしがたいものだった。母親がいなかった岡村にとって、京子さんは母同然の存在。息子のように育ててもらったのだから、無理もないだろう。
荻窪監督やチームメイトにも「選手権前のタイミングで申し訳ないけど、少しバタバタするかもしれない」と、事前に状況は伝えていた。その後の選手権やそこに向けたトレーニングへの参加も、岡村自身の判断に委ねられていた。
そんななか、京子さんの葬儀を終えた翌日、岡村は早々にチーム練習に復帰した。失意のどん底から抜け出せたわけではなかったが、病床での京子さんの言葉が背中を押した。
「あんたは人に恵まれているねと、昔からよく言われていたんです。『いろんな人たちのお陰であんな素晴らしい舞台でプレーできたのだから、感謝の気持ちだけは絶対に忘れないようにしなさい。最後までちゃんとそれを示して終わりなさい』と」
振り返れば、なかなか思うようにいかない競技人生だった。下積みが長く、Fリーグデビューまでに時間を要し、20代での引退を考えたこともあった。
しかし、出会った人との縁から次につながり、下積み時代を共にした仲間の活躍から刺激をもらい、先輩・後輩の誰からも慕われた。決して派手ではないながらもそのプレーは確実にファンの心をつかみ、岡村の生き様に共感する人々はどんどん増えていった。
そんな支えてくれたすべての人々への、感謝の気持ち。その思いをプレーで届けるため、岡村は戦列に復帰した。
初戦の岐阜FCエゴイスト戦でゴールを挙げて9-1の勝利に貢献すると、2回戦では同じF1のエスポラーダ北海道に3-2で勝利。翌週の駒沢ラウンドに進むと、準々決勝ではリーグ戦3位の強豪・バルドラール浦安を撃破し、準決勝では延長の末にY.S.C.C.横浜に1-0で勝利。決勝の湘南戦では2日連続の延長戦にもつれ込むなか、最後はエース・清水和也の決勝ゴールで2-1。見事、14年ぶりの全日本制覇を達成した。
筆者は準々決勝から決勝までの3日間現地で取材をし、岡村の様子を見ていた。いつもと変わらず、底抜けに明るい岡村の姿があった。
試合後、メンバー外となった若手とともに、スタンド裏のアップエリアで「おりゃーーー!」と叫びながら走りまくる。ほとんど出場がなかった準々決勝の後も、翌準決勝の後も「今日、俺(取材)ないすか(笑)?大丈夫すか?」と、わざわざミックスゾーンに顔を出す。真面目で天然な、いつもの岡村だった。
「チームメイトもみんな僕の状況は分かっていたので、だからこそ僕の振る舞いは大事だと思ったんですよね。家族を亡くして落ち込んでいるはずのやつが誰よりも声出して戦ってチームを勝たせようとしていたら、自然と一体感も出るんじゃないかなと思って。メンバー外の選手たちもスタンドでめちゃくちゃ戦ってくれていたので、メンバーに入ってる俺は当然もっとやらなきゃいけない。出ている時も出ていない時も、すべてをチームのために捧げる。それが“感謝を伝える”ってことなのかなと思ったんです」
決勝戦後のミックスゾーンでそう話す岡村の声は枯れていた。最後まで全身全霊で戦い抜いた、なによりの証だ。その姿を、京子さんも天国からきっと見てくれていたに違いない。
器用な方ではないだろう。遠回りもしてきただろう。それでもがむしゃらにもがき、その優しさと生き様を貫いた男・岡村康平。これから始まる新たな人生も幸多からんことを祈って、このあたりで筆を置きたいと思う。
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