更新日時:2026.02.21
【連載】その4 全国リーグ設立公式発表/その5 関東オールスター/その6 アジアナンバーワン|第10章 場外の戦い|第2部 栄華期|フットサル三国志

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【連載】フットサル三国志|まとめページ 著者・木暮知彦
第2部 栄華期
第10章 場外の戦い(2006年3月~2006年10月)
その4 全国リーグ設立公式発表
その5 関東オールスター
その6 アジアナンバーワン
その4 全国リーグ設立公式発表
2006年4月19日、JFAハウスにて、記念すべき記者会見が開かれた。それは、日本サッカー協会が全国リーグ設立を正式に決定表明したものであり、日本フットサル連盟の大仁邦彌会長より説明がなされた。すでに何度も述べたかも知れないが、1996年に第1回全日本選手権が開催されてから10年目のことである。
説明によれば、スケジュールは2006年7月に参加条件の発表と公募の開始、参加チーム数は8チームから16チーム、チームの決定は11月、シーズンスタートは翌年2007年9月からで、終了は2008年3月であった。開幕を9月としたのは、外国人選手の移籍を考慮し、最初から諸外国のシーズンに合わせる配慮をしたからである。
おおむね、噂されていたリーグ概要と同じであったが、参加チームの経費予想が示され、年間予算は4500万円、リーグに対して供託金(会費)として年800万円が必要とされた。また、2000人が収容可能な規模の体育館で安定開催する条件は変わらなかった。いずれにしても、時期が明確になり、いよいよ「場外の戦い」が本格化することとなった。
さて、ここで発表された参加条件について、三国志の視点で見てみよう。何か、全国リーグの本質が見えてくるかも知れない。
実は、参加条件は全国リーグ設立のけん引役となってきた関東フットサル界にとってあまり有利な条件ではなかった。それは、おおげさに言えば、日本の産業構造、すなわち東京都を中心とした関東への人口一極集中と関係がある。つまり、2000人規模の体育館と言うと、都会では土地代や歴史的経緯からなかなか存在しないこと、また、存在したとしても人口が多いため、既存のスポーツで利用されており、フットサルの時間帯を割くことが非常に厳しいという課題があった。
一方、地方は経済活性化の名目で箱物行政が行われ、2000人規模の体育館はいくつも建設されていた。また、人口が都心と比べて少ないため、フットサルの時間帯も確保できる。このように、フットサル人口の多い都会では体育館を確保しにくく、フットサル人口が未開拓の地方では、体育館は確保しやすいというアンバランスな関係にあったのである。
実際、のちのことになるが、府中アスレティックFCおよび小金井ジュールは2000人規模の体育館の確保ができず、最初の参入では落選してしまった。また、体育館が確保できずに、確保できそうな地方に移ろうとして失敗したチームもいくつかあった。
次に、人口集中問題は選手にも及ぶ。当然と言えば当然であるが、フットサル競技人口は一般の人口に比例して関東が多い。それは、都県リーグのチーム登録数、フットサル施設数などからも明らかである。また、フットサル競技は、個人技、戦術などの知識が重要となるスポーツであるため、情報を求めて優秀な選手の集中化が起こりやすい。関東の技術レベルが高くなり、関東リーグが隆盛した一因とも言える。したがって、全国リーグ参入を目指すチームが逆に関東の選手を獲得したくなるのは自然の流れであり、実際に関東から地方への人材流出が行われる結果となった。すでに紹介したとおり、大洋薬品バンフの定永、森岡、北原、上澤などがその例である。
このことは、全国リーグ設立が、全国平均の技術レベル引き上げには効果的であるが、同時に、集中的にレベルの高い試合を見る機会は減少することを意味する。つまり、技術レベルという点でも、バランスを欠く課題を内在しながらスタートすることになる。
さらに、人口集中問題はスポンサー確保にも影響する。それは、都会には全国区の企業が集中しており、スポンサー候補となる会社も多いが、一方で競争相手のスポーツも数多く存在する。例えば、サッカー、バレーボール、バスケットボールなどである。フットサルはこれらスポーツと競争して企業のスポンサードを獲得しなくてはならない。ましてや、都会には、楽しそうな娯楽は山ほどある。
一方、地方はどうか。スペインやブラジルほどではないが、(執筆当時の時代背景を軸に考えると)全国レベルのプロスポーツはまだまだ根付いていない。名古屋オーシャンズのオーナーである大洋薬品工業の新谷社長は当時、飛騨高山に名古屋オーシャンズの本拠を置きたかったという。高山には、大洋薬品の工場があるのだ。
本書でもスペイン事情の項で記したが、日本も地方の有力企業が全国レベルの情報発信を目指して、フットサルクラブのスポンサードを行う可能性は高い。大洋薬品と同じような例で、エスポラーダ北海道の有力スポンサー、レオックも今でこそ全国区の企業ではあるが、創業は北海道であり、代表取締役の小野寺眞悟(当時)は北海道出身である。かくして、スポンサー確保も、関東よりも地方のほうが優位に進められる構造となっている。
このように考えると、このフットサル全国リーグは、現在、盛んに言われている中央と地方の関係、地方分権がどのように進み、地域の経済活性化がどのように進むのかといった問題と全く無縁のものではない。
いずれにしても、どの程度、関東のチームが参入し、どの程度、地域に分散されるのか、早くも注目が集まる記者会見であった。
お宝写真は、4月19日の全国リーグ設立決定の記者会見の模様にしよう。左から、大仁日本フットサル連盟会長、松崎康弘フットサル委員会委員長、塩谷竜生フットサル連盟常任理事事務局長である。執筆時は、この記者会見から約10年が経過した。振り返ってみると、2003年1月に日本代表がブラジル遠征を敢行、そこに大仁が帯同、フットサルの理解が深まり、急ピッチに日本代表、全国リーグ設立の整備が行われた。松崎は、Jリーグの審判を務め、自らもフットサルを楽しみ、フットサルでも全日本選手権決勝戦の笛を吹くなど精通した。塩谷はスーパーリーグの立ち上げから関東リーグの隆盛に尽力するなど、この3人は全国リーグ立ち上げの最強トリオではなかったか。むろん、現時点ですべてがうまくいっているわけではないが、関係者の努力があってここまできたのだと思う。

その5 関東オールスター
2006年4月15日、関東リーグではオールスター戦なるものが駒沢体育館で開催された。これは画期的、先駆的な試みであった。
形式は会場投票、インターネット投票で人気選手を選び、これを得票順位の奇数、偶数で振り分けて2チームに分け、勝敗を決しようというものであった。また、来年から始まる全国リーグの有料試合をにらんで、関東リーグとしても初めての有料化試合を試みたのだ。ただ、経費の問題もあり、記念のリストバンド(1000円)をスポーツショップ、フットサル施設で購入してもらう方式とした。この他、「関東フットサルリーグプレス」という、広告を集めたフリーペーパー形式の広報誌を年4回発刊する試みも行われ、その第1号が会場にて配布された。また、CS放送のスカイAでテレビ放送も行われた。
さて、第1回関東オールスターに選ばれたフィールドプレーヤーの上位陣を見てみよう。人気投票なので、当時の関東フットサル界の別の側面を見ることができるかも知れない。
まず、第1位はなんといっても絶大な人気を誇るフトゥーロの上村あった。〝ミスター・フットサル〟とも呼ばれ、フェイク、足の裏、トゥーキックシュート、意表を突くパスなど、フットサルの見本満載が人気の秘密であった。2位は、新興勢力のボツワナから北原が選ばれた。若さと潜在能力が買われたのであろう。3位は、カスカヴェウの金山で、〝スピードスター〟と言われゴール前への飛び出しに人気があった。4位は、プレデターの岩本昌樹で、〝プリンス〟と呼ばれ華麗なテクニックと切れのあるスピードが売りであった。
5位は、フトゥーロの渡辺で、〝黄金の左足〟あるいは〝左足の魔術師〟とも言われた左足から繰り出されるパス、シュートは奇想天外であった。以下、6位にボツワナの太見寿人、7位に高橋健介、8位に〝カリスマ〟と呼ばれる甲斐修侍、9位にカスカヴェウの稲田祐介、10位にマルバの緑川毅輝が入った。なお、GK部門では1位にボツワナの内山慶太郎(のちにステラミーゴいわて花巻、フウガドールすみだGKコーチ、日本代表GKコーチ)、2位にプレデターの川原(のちに名古屋オーシャンズ、アグレミーナ浜松)であった。
これらの選手を見てみると、上村・渡辺のフトゥーロコンビに根強い人気があったことがわかる。実際は、当時イタリアに渡ってしまった小野大輔も加えたトリオとなるが、3人が魅せる、ゴールに至る絶妙で華麗なパスワーク、シュートシーンは今でも語り草になっている。同じようなパターンでは、カスカヴェウの金山・稲田・甲斐のトリオも人気があった。甲斐の後方からの鋭い直線的なパスに金山が反応、あるいは稲田がポストで受けて反転シュートは、フトゥーロとは異なる魅力があった。新興勢力では、ボツワナの北原・太見のコンビがあった。179センチ、178センチの長身と、後ろと前でフィジカルを生かした力強い連係が魅力になったのであろう。
このように、フットサルの魅力がコンビネーションにあることをファンは見逃していないことがよくわかる。
また、ミスター・フットサル、スピードスター、プリンス、カリスマなどのニックネームがつくほどに特徴のあるプレースタイルや〝風格〟が人気を集めていることも見えてくる。
絶頂の象徴とも言える関東オールスターであったが、同時に厳しい移籍シーズンをいずれは迎えるという前兆でもあった。実際、偶数、奇数チームを併せて24名の選手が選ばれたが、時期はまちまちであるものの、そのうちの約7割の17名の選手がのちに全国リーグデビューを果たし、いったんは関東リーグを去るのであった。
さて、お宝写真は、関東オールスターの選手名鑑である。ファン投票順位の奇数順位上位12名を「ミルチーロ」(ポルトガル語でブルーベリー)、偶数順位上位12名を「モランゴ」(ポルトガル語でイチゴ)という2チームに分けて戦われた。結果は、ミルチーロが9-6で勝利した。なお、MVPには前半に華麗なパスワークから2得点を挙げた市原が選ばれた。

もう1枚、同時に発刊された関東リーグの情報誌「関東リーグプレス」を紹介しよう。関東フットサルリーグ運営委員会が3カ月に1回程度発行し、主にフットサル施設やスポーツショップなどに配られた。表紙の写真は第7回関東リーグのベスト5のメンバーである。

その6 アジアナンバーワン
全国リーグ設立の大きな目的に日本代表を強くすることがあることは言うまでもない。したがって、この頃は、全国リーグ設立と日本代表の活動がセットになって活発な動きがあった。まず、3月26日から4月3日にかけて日本代表のブラジル遠征(この遠征では、ロンドリーナの豊島、のちにシャークスの神敬治、ボツワナの北原が初代表)、5月のゴールデンウィーク中の第8回アジア選手権の壮行試合のブラジル代表戦、そして、アジア選手権、翌年は待望の第9回アジア選手権の日本開催などである。日本開催は元々、2003年に計画されていたが、SARSの影響で中止になったものであり、今回は全国リーグ設立前のタイミングにようやく実現したものである。さらに、日本開催前までにポルトガル遠征、再びブラジル遠征と海外遠征が2度も行われている。
ちなみに、日本代表ではないが、プレデターが第11回全日本選手権優勝チームとして、4月6日からブラジルで行われたインターコンチネンタルカップに出場している。結果は、以前にも紹介したが、スペインのブーメランに0-8、ブラジルのカルロス・バルボーザに1-9と敗れ、世界の壁を感じて帰国している。代表に選ばれた川原、高橋は、ブラジル遠征、そのまま残ってインターコンチネンタルカップ、帰国後すぐに関東リーグオールスターと大忙しであった。
さて、そんな経緯を経て、2006年5月3日、5日、大阪市中央体育館および国立代々木競技場第一体育館で第8回アジア選手権の壮行試合が行われた。当時は、5月の半ばにアジア選手権が行われ、その壮行試合が連休中に行われることが定着していたが、今回の相手は特筆すべき相手であった。なんと、1カ月前に遠征したばかりのブラジルが相手だったのだ。
おそらく、この試合で一番感慨深い想いがあった人物は、当時の大仁フットサル連盟会長だったかも知れない。なぜなら、この3年前、日本代表のブラジル遠征に帯同し、7000人もの観衆が集まるブラジル代表との試合を見て感動、日本に帰って当時の川淵三郎チェアマンにフットサルの強化を訴え、ここまできたからである。〝ここまで〟とは、全国リーグ設立決定までである。この壮行試合の観客動員数は、関西が約5600人、関東が約8700人、合計14300人の動員を記録、全国リーグ設立発表に花を添えた。結果は、1-6、0-3と敗戦したものの、興行的には大成功であった。
その後、日本代表は2006年5月21日からウズベキスタンのタシュケントで行われる第8回アジア選手権へと出発した。ブラジルとの大観衆を集めた壮行試合、来年は全国リーグ開幕と花火が打ち上がったこともあり、今度こそイランを倒して優勝へと期待は高まった。
実際、すでに何度も記してきたが、この年の日本代表はピークのメンバーを揃えていた。悲願のワールドカップ出場からややチームは若返り、再構築を行い、昨年はイランを倒すまでに至ったが、優勝はならなかった。しかし、そのベトナム大会を経て、経験値は再びピークを迎えた感があった。すでに海外組と言われる言葉が定着した鈴村拓也、木暮賢一郎、小野の3人、成長した小宮山友祐、高橋、経験豊かな藤井、前田喜史、金山、豊島、守護神の川原、そしてベテランのキャプテン比嘉リカルドといった面々は、従来にも増して自信をもってイラン戦に臨んだ。
ちなみに、木暮は、前回大会に続いて2大会連続でMVPに選ばれた。これは、イランのシャムサイーに続いて史上2人目のことである。
決勝ではなく、準決勝で対戦したことも幸運だった。サッポの選手起用は同じ選手を使い続ける傾向にあり、これまでは決勝でイランと当たる前の準決勝で体力を消耗してしまうからだ。自信もあり、予選リーグが終了、中1日を置いてコンディションも万全ということで、結果は5-1の大差で勝利した。
ついにイランを破って決勝へコマを進めるという、今までにないパターンでファイナルを迎えることとなった。決勝の相手は、開催国ウズベキスタンである。同国とは、第5回ワールドカップ出場を決めた時の準決勝の相手で、この試合も自信をもって臨めた。結果は5―1で勝利、ついに、8年目にして悲願のアジア選手権優勝を遂げたのであった。
いつもだったら表彰台に上がるイランの選手たちの勝利の歓声を下から見上げるだけの日本だったが、この日だけは立場が逆転した。当時の日本サッカー協会の小倉純二会長、大仁副会長の姿もあった。
表彰台の選手たちもそれぞれ感無量であったに違いない。第1回アジア選手権以来、選ばれた代表は約100人、候補も含めると200人以上の選手たちの集大成がこの優勝だったことは、表彰台に立った選手たちが一番わかっていたことだろう。
しかし、喜んでばかりはいられない。辛口に考えれば、イランはこの時がもっとも不調期であった。主力選手のヘイダリアンはすでに引退、シャムサイー依存から若手への切り替え中であったから、日本の絶頂期とイランの絶不調期が重なれば、8年に1回くらいは勝つこともある。実際、翌年の日本開催のアジア選手権以降、日本は2位、3位と下降線をたどり、逆にイランは上昇、ついに2008年のワールドカップではベスト4にまで躍進した。
まったく皮肉なことに、日本代表強化のための全国リーグの正式発表の年が日本代表のピークであり、国際試合数のピークでもあった。以降、毎年開催してきたアジア選手権が隔年開催になったこともあるが、全国リーグの日程を優先することでか国際試合は激減し、成績も下降意味になるのであった。
お宝写真は、もちろん、アジア選手権優勝の表彰台で歓喜する日本代表にしよう。

しかし、残念なことに、同じウズベキスタンで行われた2016年の第14回アジア選手権では、周知のとおり、日本は5位決定戦にも敗れ、優勝どころかワールドカップ出場も逃してしまった。2000年5月に〝バンコクの悲劇〟が起きたことは賢明なる読者ならば覚えているであろう。筆者は、これを思い出してしまった。なぜなら、その時の状況と極めて似ているからである。
まず、多少こじつけかも知れないが、ワールドカップ開催地が当時はグアテマラで、今回はコロンビア、中央アメリアの北部と南アメリカの北西部、飛行機だとわずか1、2時間の距離である。日本代表にとっては、鬼門の方角だったのだろうか。
次に似ている状況は、ワールドカップに確実に行けるはずという下馬評があったことである。バンコクの悲劇の時は、1年前の大会が4位、その経験から3位以内には入れるだろうという甘い期待があった。そこには新たに結成した日本代表を初の世界選手権へ送り込むという願望が輪をかけていた。
メンバーにしても、相根澄、上村、市原、藤井、前田、難波田治、鈴村など、今にして思えば、当時の最強メンバーを揃えていた。〝タシュケントの悲劇〟も、2年前(2014年大会)の優勝、直前の壮行試合の2連勝、史上最強と言われる布陣、5位以内ならば出場可能、もはやアジアではなく世界でベスト8以上など、甘い罠がいっぱいあった。
もう一つは、負け方も似ていた。バンコクの悲劇では、準決勝でカザフスタンと対戦、勝てば2位以上で世界選手権出場を果たすという状況で、前半を2-1でリードしながら後半はリズムを崩し、藤井の一発退場もあったりして6-9で敗戦、3位決定戦にまわってしまう。そして、地元タイとの3位決定戦、前半は3-2のリードで終えた。しかし、試合内容は押していたが後半にやられ、結局6-8で敗戦、世界選手権出場の夢は叶わなかった。2016年も、内容では押しながらベトナムに延長の末にPKで敗戦、5位決定戦にまわって、結局、ワールドカップ出場を逃してしまった。
さて、問題は「バンコクの悲劇」から何を学び、敢えていうなら「タシュケントの悲劇」から何を学ぶかである。バンコクの悲劇の後は、選手に対して相当な批判が挙がった。いわく、アマチュア論、〝町のアンチャン論〟である。ついにはJリーガー待望論まで出た。これに対し、選手、サポーターたちが自ら立ち上がった。それがスーパーリーグの創設であり、やがては全国リーグにつながるのであった。彼らの飢餓感は大変なものがあった。
日本サッカー協会も、日本代表の強化を打ち出し、海外遠征を急激に増やしていった。結果、4年後にはワールドカップ出場、6年後の2006年にはアジアナンバーワンに上り詰めるというわけである。
では、タシュケントの悲劇の次は何か。それは、Fリーグの完全プロ化に尽きるのではないだろうか。再び、サポーターたちの歓喜のシーンが見られることを祈願して、もう1つの写真は、タシュケントで優勝した後の応援団と選手の歓喜の一コマとした。














